昭和42年8月31日 朝の御理解
今朝いつもの様に、ここに五時前十五分頃に出させて頂きました。神撰室の横の方で何かえらい大きな音がして倒れた様な音がいたしました。何事だろうかと私は思うておりましたら、すぐあの長女がここへ出て参りまして御神飯を神撰室に運ぶ途中でこけたらしいです。
ですから、御神飯が全部こぼれてしまった。もう本当に私はそれを聞かせて貰った時に本当に血の気が引く様な思いが致しました。
これはね、長女がこけたんじゃない。長女が不調法じゃない。これはいよいよ私がこけたのである。私の不調法である。まあ私はそう思うのです。皆さんやはり、お神様をお奉りしようとお奉りしなくても御神飯位、皆さん自宅でお供えなさっておられるのでございましょうけれどもですね、私は、皆さんどんな気持ちで御神飯やらお供えなさっているだろうかと。神様があれを食べてしまいなさる訳でもなからなければ、ね。盛り方が悪いとか、これはこげついておるではないかと仰る様なこともございません。けれども、これは私はね、神様がままになれるというね、お道の信心はどこまでも神様がままに、私共がおかげを頂くと同時に神様がおかげを頂いて下さること。
神様がままになって下さること。私共がままになることと云うのが一緒になるね、私共がおかげを受けたんで神様だけが神様の願いと云うものが成就しなかったり、ままになっていかなかったりしたんでは、もうお道の信心に戻ることである。
私そのことが丁度これは五、六年位も前の事でございましょうか。いや七、八年にもなりましょうか。まあこれとよく似たことが椛目時代にございました。その当時は家内が御神飯の奉仕をしておりました。私共夫婦が寝忘れておるんです。五時一分切ってもいけないというのに私も寝忘れておれば家内も寝忘れておる。さあ御神飯を致します。もう私は御神前に行って御祈念をさせて貰って、さあこれから御神飯を炊いて二十分位遅れて御神飯をお供えしなければならなかった。私は後から家内から聞かせて頂いたんですけども、まあ皆さんもご承知の様に楽室からこう入って参ります。楽室の障子がございましたが、御神飯を持つその手がガタガタ振るえてですね、障子が開けられなかったと申しております、ね。十五分か、二十分か御神飯をお供えさせて頂くその時間が遅れたことにですね、家内が障子を開けるのにです、ガタガタ振るえて障子がよう開けられなかった、と云う位に私共夫婦だけではございませんが、一生懸命でございますね。神様にお誓いを申し上げる、神様が本当にままになって頂くと云うことが遅くなられると云うだけでも私共はそんなに小さい神経を使うのでございますけれども、今日なんかは、本当にあの神様が突き倒しなさった様な感じ。本当にオーバーじゃございません。もう本当に血の気の引く様な思いでございました、ね。もう本当にお詫びしてもお詫びしても足りません。只済みません。済みませんじゃございません。思うてみるとあれやらこれやら、最近はお気付けを頂いておったんですけれども、気の誤りですね、人間。それをお気付けと気付かない。ほんとにあのこれは私自身の信心の不行届きであって、皆さんにどうと云うことはございませんのですけれども、私につながって信心の稽古をなさっておられる皆さんもです、思うてみなされなければいけないことがあるのではなかろうかとも思うのです。
昨日、東京からわざわざあるお伺いの為にまた、お願いの為に一身上の大きな問題でお参りして来た方がございました。午前中でございましたけれども、私丁度ある用事で上がらせて頂いておりましたから、色々お話をしておる中に、教祖様の直信でおありになる一番私共が現在出ておる時代まで生きておられました佐藤宿老と云う三代金光様の奥様のお父様に当たられるかたですね。
佐藤宿老が甘木の安武先生にこういうことを言われたという話をその方がされるのです。甘木関係の大体信者さんですね。教会に真の信心を求めて熱心に信心の稽古をする信者が五人おったら、その教会は御比礼が立つということを言われる。
そういう様な五人おっても教会に御比礼が輝くと云う様な中に合楽に参りますと、まあどんなにまあ、云うならば安く見積ってもです、合楽では五十人位はそういう信者さんがおられると云う感じます。それを聞かせて頂きながら、それこそ、きのうえもんですたいね。
ここで総代十人を初め、それに続く信者一同が成程まあ、そんな風な受け方をしているのですね。
その方が云う様に教会に五人真の信心を求めて行く人達がおれば教会に御比礼が立つと言われる程しのことに、確かに合楽ではその方が言われる様に五十人からの位はそういう信心を追求し、そういう信心を求めておられた方達がおられるとこうお世辞ではない。そういう様にその本当にその実感を私に言っておられるのを聞いて、私自身が、いいえそんなことはないとこう言いながらも、本当椛目には合楽には総代を初めそういう続いておる、まあ言うなら学生会あたりに至る迄です、こういう会にはこういう人達がおってくれるから、本当にさすがに有難いことに合楽だなあと言ったようなことをです、考えておる。 それから間もなくでした。それこそ、けたたましゅうです、その何かバタバタしておる。何してだろうかと思うとりましたら、只今あの丁度福岡から徳久さんが参っておられました。もう、吐いたり下したりして急に途端にその苦しみだされた。お願いをして下さい えられた頃にはまあ、けろっとしておかげを受けて帰られましたけども、あれやらこれやを思ってみてからほんとにこの人間的のいるもんだなと、ちょっと・・?もう、ほんにそうだと言う様な思い方をしてしもうて、神様が次々とお気付を下さっておるのにも拘らず気が付かない。思うて見るとそのことだけではございませんでした。
昨日はあのこと、このこと聞くこと見ることの中にです、ね。今朝お詫びさせて頂きながら気付かせて頂くことばかりでございました。こういうことでは、たとえお前達にはままになっても、ね、信者がおかげを受けても神様がままにならぬぞ。神はおかげにはならぬぞ。言うなら神様のお喜び頂ける様なおかげにはならぬぞと、神様がままになられると云うことはです、信者一人一人が神様が喜んで頂く様なおかげを頂くと云うことであり、神様が特級酒を飲みたいとか、ね、大きな鯉のお刺身を頂きたいとか仰るのじゃないです。 神様の本当の願いと云うのは、私共が本当に信心を頂いてね、どうぞ、氏子信心しておかげを受けてくれよと仰るその信心を頂いて、その信心に依って私共が幸せになって行けれる、おかげを頂けていけれる。あの世この世を通しておかげを頂いていけれる様なお徳を受けてこそ、神様の願いが成就していくと云うことなのである。
私共の目先目先の願いが一つ二つ成就したからと云うて、私共はおかげを頂いて有難いだろうけれども、神様はそれで有難いと云うて下さるのではないのです。本当に私は、また今朝のその御神飯が供えできないと云うことに何かこうガタガタ振るう様な気持ちは今でもまだのきません、ね。神様がもうこれは私の本当云うなら一番の願いである。その願いが成就しないと云うことなのですから、例えば、今日一日でも、ね、済みません済みませんとお詫びするだけではございませんでした。今日はいつもよりは時間も長く、もう詫びても詫びても詫び足らない。只の済みませんでは足らん。済まんで済むか。済みません済みませんで済むかともうそう云うておられる様な気が致しました。
昨日はここの御造営が成就致しまして、こちらへ移らせて頂いてから初めてと思われる様に庭の隅々までもう、私を初めもう家族総動員で掃除をさせて貰い、草を取らせて貰う。隅々のゴミを取らせて貰うて夕方から昨日は四時まで奉仕をしておりましたから、四時過ぎから夕方までかかって、もう本当にその気になっておるけれども、神様からお許しを頂けません。もう本当に散っておるのですね。
最近御信者さん方が率先されて各地区地区にここのお広前はここの修行生の方達が受け持ってやる。客殿、応接室、共励殿と云う所を毎朝各地区の出来られる方達だけが話し合って清掃なさって下さる。ですから、見違える様にどこもここも美しゅうなって行くにも拘らず、勝手の方の庭先が、どこもここへ移って来た当時からのゴミがある様なゴミがある。とにかく隅々が大事でしょう。
私はまあこれでいて大体が掃除好きでございますから、もう本当にお許しを頂きよるなら毎日でも掃きたい気がする。どうしてもお許しを頂けませんけれども、昨日はお許しを頂いてから掃除させて貰いました。ですから、日常出来ないところも掃除が出来て隅から隅まで掃除をさせて頂いて気持ちが良か、気持ちがとばっかり言うておる。まあこんなに気持ちが良いことはないね。そういう中からでもです、本当に自分のその心の中に思いをせずに只形のことになることだけを、気持ちが良い、気持ちが良いと言い、自分の心の中の改まり、自分の心の中の隅々までのほこりを取り除こうとはしないで、終わさせて頂いて今朝の大失敗、ね。
たとえて申しますならば、ここのお広前の御造営が御成就になったと言うことも、まあご成就になったとは言いませんけれども、こうして出来ましたと云うことも、ね、云うならば私共の願いが成就したと云うことも言えるのですけれども、神様の願いが第一成就したことになる。 神様の悲願とも言うておられる、神様の願いが成就したことにいわばなるのでございますね。そのことの為に神様のどれだけのお働きを頂いたことか。
昨日、生長の家の信心をされると云う方が導かれて参って来ました、黒木町から。それで私の話を聞いて大変まあ、感銘して下さった様である。そういうところも私の思い上がりなんです。是非ご建築中のを見せて頂きたいと。私が先頭に立ってからご説明をさせて回らせて頂きながらです、今から考えてみるとです、本当にもう、慢心と云うか、自慢気と云うか、もう私はこれから私でなからにゃならんと云う人だけならともかく、もう本当にあのここに参観をされる人達にです、自分が先頭に立ってから私はもう説明でもして見て回ると云った様なことはもうこれを境にしまいと私は思いました、ね。 それは本当に私は自慢でもしたい程にまあ、云うなら見事に出来たけれども、と、云うてなら私が造ったのか、私のかと云うとそうではないのです。神様の働きを神様の願いがこういう形に現れて出来ただけのこと、ね。皆さんだってそうでしょうもん。
私がこうしたけん出来たと云う人はないでしょうもん。ね、なるほど皆さんがお供えをなさいました。そのお供えをなさってから損をしなさったことはないでしょう。ね。それこそ神様はそういう一生懸命のものなら一生懸命の者程、十のものは百にして返しておられるのですよ。
私の信心ができたから、私が徳を受けたから、これが出来たのじゃないのです、ね。そういう様なことをです、本当に次々とお気付を頂きながら、私自身気付かなかったうかつさがですね、今朝の衝撃です。ね、私共の我情我欲だけを満たすだけの為の信心が長く続くとは思われません。ね、
神様がままになられると云うことの信心が先ず出来てこそ、私共が何時何時迄もおかげが受けられる、道も開けて來ると思うのです、ね。
私は今朝の御祈念にまあ、お詫びに終始させて頂きましたけれども、お詫びの中に今迄気が付かなかった、このことは是非改まらせて頂きますからと云うてまあ、どうやらこうやらお許しを頂いた様な感じでございましたけれども、又再びこういう様なことのない様な、こういう事を繰り返すことのない様なおかげを頂かねばならんなと云うことを思わせて頂いたんですけれどもです。皆さんも、それぞれにお気付けを頂かれておられる様なことがあるに違いないけれども、気が付かんでおられるだけのこと。ね、ですから本気で改まらせて貰って本当に六根清浄と口には限りなく美しゅうならせて頂こうやと合楽の合言葉のように云うておるのですけれども、果して美しゅうなっておるだろうか、ね。慢心、我がまま、増長。実意丁寧とは似ても似付かぬ様な内容であり態度であり、そういう様なものがです、確かに私共の心の中にあることを気付かせて頂いて、改めての信心をさして頂こうとまあ、私はこう思うのでございます。
もう今日はこんなに言葉多く皆さんにお話を聞いて貰うというようなことはなくて、それは何と申しましょうかね、本当に・・・・?ですよね。私の皆さんに教えるようなことを言う資格がありませんのですけれどもね。私だけが改まったんじゃいけません。私だけがお許しを頂かねば出来ません。私を中心にして皆さん一同もやはりおかげを頂いて貰わなければならないと同時に、又お祈り添えをして頂かなければなりませんのです。各々が総改まりに改まらせて頂いて本当に八月一杯今日迄のお粗末御無礼をお詫びさせて貰うて、九月一日の明日から、今日はもう一日を一つお詫びで過ごさせて貰うて改まった信心に踏み切ら出して頂こうと思うのでございます。どうぞ宜しくお願い致します。